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      203高地 旅順港 東鶏冠山 水師営 大連 丹東
       一歩跨 鴨緑江断橋 万里の長城 瀋陽 など
           旅順・大連・北朝鮮 ほか           
1.はじめに   今から100年余り前、日本は激動の波に揺られていました。  多数の国が植民地化される中で、日本は国家存亡の危機にさらされました。  今日の繁栄を享受している者としては、先人の努力に深く敬意を表さなけれ  ばなりません。   というわけで、今年は陶芸仲間と歴史を辿る旅行に出かけました。  我が陶芸仲間は歴史的存在感を増しつつあるので、先人を敬う気持ちも強く  なってきているのです。今回は陶芸グループのマドンナ(と言うか、土練り  などの力仕事をご下命くださる女王様)を含めた8人でした。   まず、100年位前にどんな出来事があったのか、少し抽出してみます。    ・1894(明27)年7月:日清戦争勃発  ・1895(明28)年3月日清戦争終結  ・1899(明32)年:ロシアがダーリニー(大連)都市建設開始  ・1904(明37)年2月8日:日露戦争勃発    ‐1904(明37)年12月5日:203高地を完全制圧   ‐1905(明38)年1月5日 :水師営の会見(乃木とステッセル)   ‐1905(明38)年5月27日;日本海海戦でバルチック艦隊撃破  ・1905年(明38)9月5日:日露戦争終結  ・1906(明39)年:満鉄設立。東京に本社、翌年大連に移転  ・1911(明43)年:辛亥革命/清朝滅亡  ・1914(大3)年:第一次世界大戦勃発  ・1918(大7年):ロシア革命  ・1932(昭7)年:満州国建国 2.旅順   司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」では、時代背景として日露戦争が大きく  横たわっていました。その日露戦争のハイライトのひとつは旅順港の攻防で  した。旅順港内に待機していたロシア軍の旅順艦隊を叩くため、203高地  をめぐって激しい戦闘が展開されました。 ryojyun-map.jpg        ↓爾霊山(203高地)       山頂の記念碑        s-20120514 ryojyun (34).jpg   ロシア軍は旅順港を囲む山に多数の要塞を築いていました。  東鶏冠山は激しい戦闘が行われた場所のひとつです。要塞の壁には多数の銃  弾の跡が残っています。 s-20120514 ryojyun (11).jpg ←東鶏冠山の要塞址  ↓ s-20120514 ryojyun (15).jpg   203高地と呼ばれているのは、標高203メートルの爾霊山(にれいさ  ん)です。この203高地を奪還するために多数の犠牲者を出しました。       国賭けて 歩兵は蟻の列となり      203高地を制圧した後、旅順港攻撃に威力を発揮したのは、口径280  ミリの二十八珊砲(にじゅうはちさんちほう:280mm榴弾砲)だったよ  うです。203高地から旅順港までは約4キロ、二十八珊砲の射程距離は7  キロ以上だったそうです。203高地の頂上に二十八珊砲(複製)が据えら  れていましたが、実戦で据えられたのは山の中腹だったそうです。砲口の中  に私の頭はすっぽり入りました。 s-20120514 ryojyun (26A).jpg ←203高地    ↓二十八珊砲(さんちほう)   s-20120514 ryojyun (29A).jpg   戦争当時の203高地は裸山だったようですが、現在は高く伸びた雑木で  覆われています。山の中腹までバスで行き、15分程度歩くと頂上に着きま  した。   s-20120514 rjyun (32).jpg   見下ろせり      青葉の彼方          旅順港   203高地を訪ねた日は快  晴でした。  はるか彼方に旅順港を見下ろ  すことができました。 ←203高地から見る旅順港 s-20120514 ryojyun (25A).jpg ←明治時代の旅順港(右手奥)  ↓現代の旅順港(出所:大連旅順旅遊集団) s-Lvshunkou-740x350.jpg s-20120514 ryojyun (45).jpg ←旅順港(現在は中国の軍港)  ↓旅順駅(ロシアが建設) s-20120514 ryojyun (46).jpg     旅順要塞司令官ステッセルは、遂に旅順開城を申し出ました。  乃木将軍とステッセルとの停戦の会見が「水師営の会見」としてよく知られ  ています。(水師営の原義は水軍の駐屯所、だそうです)   戦争のために家屋が破壊されていた中で、赤十字の治療にあてられていた  民家が会見場所として使われたのだそうです。 s-20120514 ryojyun (24).jpg ←現在の会見所(復元)   ↓当時の会見所  s-20120514 ryojyun (27A).jpg   明治天皇は、ロシア将官が「祖国のために尽くした..武士の名誉を保持  せしむる.」ことを望まれ、これを受けて会見は和やかに行われたそうです。   その模様は、「水師営の会見」という小学唱歌(明治39年6月)として国  民に親しまれました。 
    水師営(すいしえい)の会見  作詞:佐々木信綱 作曲:岡野貞一       1 旅順開城(りょじゅんかいじょう)約(やく)なりて    敵(てき)の将軍(しょうぐん)ステッセル    乃木大将(のぎたいしょう)と会見(かいけん)の 所はいずこ水師営     2 庭に一本(ひともと)なつめの木 弾丸(だんがん)あともいちじるく    くずれ残れる民屋(みんおく)に いまぞ相見(あいみ)る二将軍    3 乃木大将はおごそかに みめぐみ深き大君(おおぎみ)の    大みことのり伝(つた)うれば 彼(かれ)かしこみて謝(しゃ)しまつる
  s-250px-Nogi_and_Stessel.jpg   4 昨日の敵は今日の友 語る言葉もうちと   けて   われはたたえつ彼(か)の防備(ぼう   び) 彼(かれ)はたたえつわが武勇   5 かたち正していい出(い)でぬ 「この   方面の戦闘(せんとう)に   二子(にし)をうしない給(たま)い   つる 閣下(かっか)の心いかにぞ」と   6 「二人のわが子それぞれに 死所(しし   ょ)をえたるを喜べり   これぞ武門の面目」と 大将答え力あり     ↑ロシア将官も帯剣で臨んだ会見       7 両将昼食(ひるげ)ともにして なおもつきせぬ物語    「われに愛する良馬あり 今日の記念に献ずべし」    8 「厚意(こうい)謝(しゃ)するに余りあり 軍のおきてにしたがいて    他日わが手に受領せば 長くいたわり養わん」    9 「さらば」と握手ねんごろに 別れて行くや右左    砲音(つつおと)たえし砲台に ひらめき立てり日の御旗(みはた)  
    この小学唱歌は、会見の様子を物語にしています。  両軍の将が互いに讃え合っている様子が印象的です。ステッセルが日本に好  意を寄せたのは、広瀬中佐がロシア駐在武官だったとき、ロシア社交界で人  気者だったことの影響があるかも知れません。広瀬は旅順で戦死し、ロシア  軍によって手厚く葬られたそうです。   戦後、広瀬は軍神と讃えられ、文部省唱歌『廣瀬中佐』が歌われました。   旅順市郊外に旧・旅順刑務所が残っていました。  ロシアが建設した後、日本が引き継いで使ったそうです。ハルビン駅で伊藤  博文を狙撃した韓国人の民族運動家・安重根は、この刑務所の独房に収容さ  れ、処刑されたそうです。日韓併合(1910年)の直前の出来事でした。 s-20120514 ryojyun (21).jpg  煉瓦朽つ    獄舎の庭に       夏の花  現地では「日ロ監獄」と呼び、 反帝国主義教育施設としているよ うです。     ←旧・旅順刑務所   旅順港の海岸近くに旅順博物館があります。  ここには、20世紀初頭に3回に亘った大谷探検隊の収集品が展示されてい  るそうですが、月曜日だったため、入館することができませんでした。      日露戦争から約30年後の昭和の初期、満州国が成立しました。  その陰で、男装の麗人と呼ばれた川島芳子が多彩な活動を広げました。   旅順は、芳子が幼少時代を過ごした地だそうです。彼女の旧居と、結婚式  を挙げた旧・旅順大和ホテルも博物館に近い位置にありました。 s-20120514 ryojyun (39).jpg ←旅順博物館  ↓旧・旅順大和ホテル s-20120514 ryojyun (42).jpg   旅順が外国人の一般観光客を受け入れるようになったのは、2009年か  らだそうです。 3.大連   19世紀末、中国は欧州列強の餌食とされました。  イギリスは九龍半島(香港)と威海衛、フランスが広州湾、ドイツが青島、  ロシアが旅順と大連を租借地とし、それぞれ海軍基地を築きました。   ロシアは軍港である旅順の近くに商業港を築くため、鄙びた漁村に大規模  な開発を始めました。それがダーリニー(大連)です。   日露戦争後は日本が大連を開発しました。    大連市の海よりの一画にロシア人街があります。  大連市の中心部から海のある北に抜ける旧・大山通り(上海路)に面してい  ます。大連を占領することになった日本人は、ロシア人街の美しさに魅了さ  れ、ロシアの都市計画を踏襲することにしたようです。  s-20120515 dairen (29).jpg ←ロシア人街  ↓日本橋(現・勝利橋)   (ロシア人街から南向きで撮影     橋の向うは旧・日本橋郵便局) s-20120515 dairen (31).jpg   ロシアの都市計画は、先進国フランスの首都パリを模倣したようです。  まず商業地区の中心部に円形広場を作り、そこから放射状に道路を延ばすも  のでした。広場の名称は、円形広場(ロシア時代)→大広場(日本時代)→  中山広場(現代)と変わっています。 s-DSCN4287.jpg ←大広場(明治時代)  ↓旧・横浜正金銀行大連支店   (中国銀行大連市分行) s-20120515 dairen (21).jpg   広場の周囲には、日本時代に建設された多数の建物が並んでいます。   大連賓館(旧・大連大和ホテル)は、日本人向けのパンフレットを用意して  いました。旧・大連市役所の屋上に建っている塔は、京都の祇園祭の山車を  モチーフにしたものだそうです。 s-20120515 dairen (19).jpg ←旧・大連大和ホテル(大連賓館)  ↓旧・大連市役所(大連賓館から) s-20120515 dairen (28).jpg   大連に行くならアカシアの時期にしよう、と考えていました。  若い頃に読んだ清岡卓行さんの芥川賞授賞作「アカシアの大連」が頭の隅に  残っていたためです。今回はアカシアの花が咲く時期よりも半月ほど早かっ  たのですが、アカシアの並木道だけは眺めたいものだ、と願っていました。   パックツアーの悲しさで、アカシアの大樹が生い茂っている通りを歩くこ  とはできませんでした。 s-20120514 ryojyun (47).jpーg   大連の街路樹はプラタナスが主流  となっているようです。実は、アカ  シアは放っておくと大樹になるため、  手入れが大変なのだそうです。   「槐花大通」という道路標識を見  かけました。アカシア通りの意でし  ょうか? ←侘しいアカシアのある通り(..涙)   大連の北に金州市があります。  大連が黄海に面しているのに対し、金州は渤海に面しています。大連が整え  られる前は、金州が遼東半島の喉仏のような要衝の地だったそうです。   日清、日露の両戦争で日本は金州を攻略しています。   正岡子規は日清戦争のとき、従軍記者として遼東半島を訪ねました。  戦地での貧弱な食事に難渋していた折、松山藩主の宴に招かれたことに感激  して詠んだという句碑が残されています。生きることに貪欲だった子規らし  い句、と言えるでしょう。   ここを訪ねてくる人は、日本人だけと思われます。句碑の周りだけが整備  されていました。         金州城にて  子規       行く春の酒をたまはる陣屋哉 s-20120513 kinshu (1).jpg ←古い市街地の一画にある句碑  ↓  s-20120513 kinshu (2).jpg   金州では、大規模な工業団地が開発されていました。  大連市北方での企業誘致の波が金州市にも及んでいるようで、無数の高層マ  ンションが林立していました。   高層建築が並んでいるのは、市の中心部と工業団地だけではありません。  大連市南西の(満鉄が開発したリゾート地の)旧・星が浦には、広大な広場  (星海広場)が整備され、近くには超高層マンションが建っていました。   大連市南東の漁港は、2、3階建ての高級住宅と高層マンションで囲まれ  ていました。     s-20120514 ryojyun (3).jpg ←星海広場と高層マンション  ↓漁港と高層マンション s-20120515 dairen (13).jpg s-20120515 dairen (16).jpg ←裕福な奥様方の朝の体操  ↓漁師さんも朝の体操 s-20120515 dairen (8).jpg   4.北朝鮮   大連の北東、丹東は鴨緑江を挟んで北朝鮮と向き合っています。  日本が日露戦争に勝ち、日韓併合を進める頃から、日本は丹東(旧・安東)  と対岸の新義州に町の開発を進めました。二つの町を結ぶため、二つの鉄橋  を架けて鉄道を通しました。   朝鮮戦争のとき、中国が北朝鮮を援護したため、アメリカ軍は空爆で橋を  破壊しました。橋全体を破壊したのではなく、北朝鮮寄りの半分です。ひと  つの橋(鴨緑江橋梁)は修復されず、「断橋」として残り、観光客を集めて  います。100メートルほど離れたもう一つの橋(鴨緑江大橋)は復旧され、  現在も中朝交易の主要道として利用されています。中国人の北朝鮮観光客の  多くは、この橋を通る列車で平壌に向かっています。 s-20120513 tanto (1).jpg ←断橋(手前)  ↓断橋の先端 s-20120513 tanto (11).jpg   橋の近くから観光船が出ています。  国境は川の中央のはずですが、船は中央を超えて北朝鮮寄りまで近づくサー  ビスをしてくれます。   丹東には高層ビルが林立し、夜は照明が溢れています。  対岸には高層ビルがなく、夜は暗く沈んでいました。煙の出ていない高い煙  突がありましたが、戦前に日本が建設した王子製紙の工場だそうです。 s-20120513 tanto (79A).jpg ←双眼鏡で覗いている監視員  ↓元・王子製紙の工場 s-20120513 tanto (61).jpg   丹東市街地から20キロほど北に、虎山長城があります。  万里の長城の東端だそうです。明の時代、15世紀に建設されたことが20  年余り前に確認され、修復されたそうです。修復と言っても、古い石は散逸  していたので、煉瓦を積んで新しく作りあげたようです。 s-20120513 tanto (38).jpg ←虎山長城  ↓ s-20120513 tanto (33).jpg   山の麓に「一歩跨ぎ:いっぽまたぎ」と呼ばれている場所があります。  北朝鮮との国境である鴨緑江の川幅が、わずか数メートルに狭まっているた  めです。一歩跨ぎの上流はまた川幅が広くなっています。一歩跨ぎの辺りは  地下水のバイパスができているのかも知れません。 s-20120513 tanto (27).jpg ←一歩跨ぎ  ↓一歩跨ぎから見た北朝鮮の農作業 s-20120513 tanto (24).jpg   一歩跨ぎの少し上流に観光船の乗り場がありました。  ここから北朝鮮領内に入るビザなし観光が、3年前から、できるようになっ  た、ということでした。 s-20120513 tanto (40).jpg ←山上に警備兵  ↓人影の見えない村 s-20120513 tanto (43).jpg   小さな湖のように川幅が広くなっている場所でした。  片側には農家と思しき集落があり、反対側には将校の別荘だという家が並ん  でいました。 s-20120513 tanto (45).jpg ←豪華な(?)別荘  ↓金日成万歳の看板と警備兵 s-20120513 tanto (47).jpg   家の横で作業をしている女性が見えました。  写真を拡大してみたら男性のようです。実をつけたまま刈り取って干したト  ウモロコシを取り入れている模様でした。   往復1時間の遊覧でした。 s-20120513 tanto (46).jpg ←家の周りの作業  ↓水浴した男と話す自転車の男 s-20120513 tanto (48).jpg 5.瀋陽   瀋陽に着いたのは夕方でした。  ホテルは瀋陽北駅の向かいにありました。駅は修復作業の最中でした。駅前  の外れの大衆食堂に入り、夕食を食べました。地元の人だけしか入らないよ  うな店でした。知らない土地で言葉は通じなくても、年寄りが8人もいれば  怖いものはありません。あれこれ注文し、飲んで食べて一人400円程度で  した。 s-20120512 shinyo (2).jpg ←瀋陽北駅前  ↓船員募集の張り紙 s-20120512 shinyo (3).jpg   駅前の工事現場の壁に船員募集の張り紙がありました。  近海で月8千元(約10万円)、遠海で年10−15万元(130−200  万円)と書いてありました。後で中国人のガイドさんに聞いたところによれ  ば、都市部での平均月収は4千元前後(5万円前後)ということでした。   尖閣諸島辺りが近海に当たるのか、遠海に当たるのかは分かりません。   翌日、遼寧省博物館と瀋陽故宮博物院を見学しました。  遼寧省博物館は大変大きな博物館でした。見学が終わる頃、一人で見学をし  ていた60歳代と思しきおじさんが日本語で話しかけてきました。50歳で  退職した後、10年余り日本語を勉強しており、来年は是非日本を訪ねたい、  と穏やかな口調で語ってくれました。 s-20120512 shinyo (5).jpg ←遼寧省博物館  ↓繁華街の宝くじ売り場 s-20120512 shinyo (12).jpg   瀋陽故宮博物院は昔の皇居だったそうです。  建築様式として、漢民族、満州民族、蒙古民族の様式が融合している点に特  徴があるようです。台湾の故宮博物院のような、美術品の展示は見られませ  んでした。   庭に松が多数ありましたが、日本のように剪定の手入れをする習慣がない  ようです。 s-20120512 shinyo (19).jpg ←瀋陽故宮博物院  ↓伸び放題の松 s-20120512 shinyo (28).jpg   瀋陽の人口はおよそ700万人だそうです。  東北地方最大の都市です。私は、瀋陽市内中心部の出身で野洲市の郊外に嫁  いできた女性に、日本語のてほどきをしたことがあります。コンピュータが  得意な彼女が、「ここは田舎だ」と嘆いていたことが理解できました。   瀋陽は満州国の時代には「奉天」と呼ばれ、日本との関わりが深かった土  地です。今回は日本に関係した史跡を巡ることはできませんでした。 s-20120512 shinyo (29).jpg ←市内の渋滞    ↓車を移送する大型トラック   s-20120512 shinyo (30).jpg 6.おわりに   今回の旅行は、出発の2週間ほど前に急遽ルート変更がありました。  最終日に瀋陽から帰国する予定だったフライトが、急にキャンセルになった  ためです。中国ではよくあることだそうです。そこで旅行社が採った措置は、  訪問先は変更せず、まず瀋陽に入って大連から帰るように、訪問順序を逆に  することでした。本稿では、当初のスケジュール通りに、つまり実際とは逆  の順序で記述しています。   旅順の水師営では日本人向けに土産物を売っていました。  水師営での故事を流暢な日本語で説明した女性が、形状の変わったオメガの  懐中時計や蟻の入っている琥珀の塊らしき品などを巧みに勧めてくれました。  あたかも、満州国に住んでいた日本人が残した品のような口調でした。   子規の句碑、水師営、北朝鮮クルーズなど、商売上手な取り組みに接する  と、近くに控えている北朝鮮との対比もあり、中国は経済自由主義の国なの  だ、という実感が強くなりました。   満州からの引揚者は、着の身着のままで帰国しました。  持ち出すことができたのは、・現金一人当たり千円 ・衣服は夏冬各2着   ・食料1週間分 だけだったそうです。絵葉書や地図の持ち出しも禁じられ  たそうです。   井上ひさしさんは、大連に渡った友人からもらった絵葉書がきっかけで、  大連や満州の絵葉書を収集してきたそうです。井上さんは、大連に出かけた  (5代目)志ん生と(6代目)円生についての戯曲を書いています。    大連や満州で生活した経験のある著名人は沢山います。  著名人だけでなく、身近にもいます。今回の旅行に参加しなかった陶芸仲間  の一人は、軍属の少年として瀋陽の近くで2年ほど過ごしたそうです。私の  知人の一人は瀋陽で生まれたため、生家の跡を定年退職後に訪ねています。   今回のツアーは楽しいものでしたが、大連の見学時間が少なかったことと、  満鉄関連の施設を見学することができなかったのが残念です。                 (散策:2012年5月11日〜5月15日)               (脱稿:2012年6月15日)     ご参考:・初めての中国(その1)       ・初めての中国(その2)       ・初めての台湾   参考図書・大連・旅順歴史散歩 荻野純一ほか 日経BP出版        ・大連歴史散歩    竹中 憲一  皓星社       ・アカシヤの大連   清岡卓行   講談社       ・井上ひさしの大連  井上ひさし  小学館       ・円生と志ん生    井上ひさし  集英社    -----------------------------------------------------------------        この稿のトップへ  エッセイメニューへ  トップページへ